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【9月30日まで個展を開催中】美術家ミヤケマイ氏に迫るアート対談[パート2]

【ART PROJECT with P.G.C.D.特別企画】
Respect the Artistミヤケマイ×P.G.C.D.代表 野田 泰平[パート2]

アートを通して自分の美的価値観を発見し、新しい自分に出会うP.G.C.D.の新プロジェクト『ART PROJECT with P.G.C.D.』。

美術家のミヤケマイ氏による個展「ハクチョウの唄」が現在開催中です。

本日は、展覧会に先立ち行われた美術家のミヤケマイ氏とP.G.C.D.代表による対談のパート2をお届け。
引き続き、滋賀県にあるアトリエにて、今までの経歴やアートに対する想いをたっぷりと語っていただきました。
(対談のパート1はこちら

Respect the Artist
ミヤケマイ
媒体を問わない表現方法を用いて骨董・工芸・現代美術・デザイン、文芸など、既存の区分を飛び越え、 日本美術の文脈を独自の解釈と視点で伝統と革新の間を天衣無縫に往還。2008年パリ国立大学大学院に留学。主な展覧会 金沢21世紀美術館(2018)、釜山市美術館(2018)、OPAM (2018)、ICOM京都大会(2019)、さいたま国際芸術祭 (2020)、横浜県民ギャラリー(2021)大宮盆栽美術館(2021)神奈川県民ギャラリー(2022)千葉市美術館(2022)、京都菜の花(2023)その他メゾンエルメス、ポーラ美術館(箱根)水戸芸術館 現代美術ギャラリー「クオリテリオム65」、柿傳ギャラリー、黒田陶園、村越画廊、壺中居、ワコールスタディーホール、ポーラミュージアムアネックスなど個展多数
京都芸術大学教授
http://www.maimiyake.com/

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株式会社 ペー・ジェー・セー・デー・ジャパン 
代表取締役CEO
野田 泰平
1979年福岡県生まれ。2010年に株式会社P.G.C.D. JAPANを設立。「年齢を美しさに変える人」を増やすため、スキンケア・スカルプケアの商品を開発、販売。また、2019年にはホールディングス会社である株式会社JBI GROUPを設立。企業理念『Pay forward』を掲げ、“世界を幸せにする人を増やす”という使命のもと、サスティナブルな商品、サスティナブルな事業を創造し、社会と未来に貢献する。

人の3倍、働こう!そしてぎっくり腰に。

野田
Maison de P.G.C.D.の「アート」というテーマで、芸術家のミヤケマイさんにお話を伺っていきます。前回のパート1に引き続き、滋賀のミヤケさんのアトリエからお届けします。

パート1では、学生時代のお話しから、大学卒業後に一度就職された後、退職して作家としてデビューして活動を始めるまでのお話を中心にお聞きしました。
その後、エルメスから依頼を受けたり、パリに学びに行かれたとお聞きしています。
その頃のお話しや、パリでの学び、そこで何を感じたのかなどを教えてもらえますか。

ミヤケ
はい。デビュー当時、とりあえず3年は人の3倍働いて、ダメなら実家に戻って嫁に行こうと思っていたんです。
それで、人の3倍ぐらい展示をしていて、年間3回は個展を開催し、グループ展や美術館の展示もやっていました。

野田
すごいですね。ちなみに作家活動はご自宅で?

ミヤケ
はい。尋常じゃないペースで自宅で仕事をしていたので、もう個展前とかは足の踏み場もないくらいで、直前は立って食べるみたいな生活でしたね。

野田
ご両親もびっくりされたんじゃないですか?

ミヤケ
そうですね。で今までのほほんとしていたので、あきらめると思っていたと思います。
そんな感じでつめて働いていたら、ずっと同じ姿勢で体の一部しか動かさないので、腰の筋肉がおかしくなって、ある日ぎっくり腰になってしまって。
絵で食べていたので、動けないことにびっくりして、パニックになって。
「絵が描けなくなる=生活不可になる」と思い友達に相談したら「なんでマイはレジデンス※取らないの」って言われてたんです。
最初は「え、レジデンスって何それ?」みたいな。文化庁や企業、財団が、2~3年旅費や生活費も出してくれて作家活動や学びに専念できるようなプログラムで。
私は美大に行っていないので、そういうこと知らなくて。
それで、そうだレジデンスに行きたいとその頃思いはじめました。

※レジデンス(アーティスト・イン・レジデンス)
アーティストが一定期間ある土地に滞在し、常時とは異なる文化環境で作品制作やリサーチ活動を行うこと。またはアーティストの滞在制作を支援する事業のこと。奨学金の有無、設備、受け入れ条件などは各制度によって異なる。

引用元:美術手帖

パリが私を呼んでいる。いざ、フランス留学へ。

ミヤケ氏のアトリエの書庫には多くの本が並ぶ。

ミヤケ
ぎっくり腰になって、レジデンスというものを知った頃、渋谷のシアターコクーンの手前にある、Bunkamuraのギャラリーで個展をしておりまして。

シアターコクーンに行く人には、アート関係の人がわりといて、エルメスのチーフキュレーターの方が、他のものを見に行った帰りに私の展示を見てくださったんです。
そこで、前回(パート1)で話したような「空間のお仕事やってみる?」みたいな感じでインスタレーションの展示につながって。

エルメスで展示した時に、エルメスなので、フランスの方々も多くオープニングにいらしてて「ミヤケさん、パリとかに興味ないですか?」というオファーをいただき「レジデンスきたー!」と飛びつきました。

もともとはフランス語も全然できず、そんなにフランスにも興味がなかったのですが、もうこれしかないと思いました。

その後、フランス語が全く喋れないまま試験を受けましたが、ポートフォリオ審査は英語でどうにかクリアしました。
日本の美大と試験の方法が全然違っていて、日本の美大の入試はデッサンなどがメインですが、ああいうのは大学入って誰でもやればできるようになるものなので、フランスではしないそうです。

フランスの大学の入試は、自分の作品のポートフォリオと、ずらっと教授が並んでいる中で、口頭試問をすごい長い時間かけてやるんです。

私の入った美大は、現代美術の作家というプロを育てるところなので、教授にはアネット・メサジェとかクリスチャン・ボルタンスキーとか、有名な作家がずらりと揃っていて。
そういう人たちに「なんでこんな作品を作ってるんだ」とか「なんでこうなんだ」とか、集中砲火で質問攻めにあいました。
結局彼らが何を見ているかというと、
まず『作品が作れるのか』ということと、『作品が作れるだけの体力や精神力などがあり作家向きか』ということを重要視しています。

美術は、批判は日常茶飯事で体力気力もいる。
そういうハードとソフトで適性を見て、残りは学校入ってから教えればいいという感じでした。

フランス語も喋れないのになぜか合格できまして、パリに留学することになりました。

野田
そうだったんですね。
パート1の話の中に、日本から影響を受けたアーティストが好きだっていうお話がありましたが、それはパリに行く前から思われていたんですか?

ミヤケ
そうです。フランスに行く前から今みたいな作品を作っていて。
ある意味、フランスに行く理由はないといえばないのですが、腰を悪くしているので2年間治療のためにみたいな感じで。パリにすごく腕の良い針の先生がいるってことを人づてに聞いていて。

野田
知っていたんですか?

ミヤケ
世界中のお金持ちから飛行機で呼ばれて治すような、天才的な中国針と日本針の両方使える先生がいるって。
「それだ!」と、パリとご縁を感じた瞬間です。本当にパリに行って一番最初にしたのが針の先生を訪ねることでした。毎月まじめに通って、おかげさまで1年で再発せずに治りました。

療養的フランス留学のなかで生まれたもの

野田
パリでの二年間は基本的にずっと作品を制作されていたんですか。
 
ミヤケ
腰を治すのが主体な感じでしたので、大学には行っていたんですけど、のんびり遊んでばっかりで。
私、奨学金をもらって行っているんですが、奨学金が何故ほしいのかという話のときに、仕事のしすぎで腰を痛めてみたいな話をしたら、奨学金をくれた人から、「ミヤケさんは働きすぎだね。アーティストはもっと遊ばないと。だから奨学金あげるから遊んでおいで」って言われて真に受けました。
 
野田
本当ですか?
 
ミヤケ
はい。療養してのんびり暮らしていたので、腰は治ったけど10キロ太って帰ってきました。
 
野田
じゃあ、そこで作品のターニングポイントがあったとかでは無いんですね。
 
ミヤケ
全く無いです。ただパリでは、それまでやったことがない、向こうで一般的な技法であったモザイクとフラスコとステンドグラスを勉強しました。
 
実は、この間、広島県の生口島にある瀬戸田という地域の〈yubune〉と〈Azumi〉という宿泊施設の銭湯で、瀬戸内海の景色を表した天然石のモザイク壁画を作ったんですけど、初めてフランスで培ったものが役に立ちましたので嬉しかったです。

『Azumi Setoda / yubune』 ミヤケマイ公式サイトより

野田
そうなんですか。じゃあ、自分の中では心落ち着かせて、体を落ち着かせる期間だったということなんですかね。
 
ミヤケ
まあ、完全に療養です。

野田
でもそれだけゆっくりできたのは、やっぱり大きかったんじゃないですか?

ミヤケ
確かに。行く前に絵の仕事は療養のため全部切って行ったので、皆さんに「ボザール(フランスの国立美術大学)に留学するので、活動を2年間停止します」っていう通達を出したんですよ。

その時に講談社の方から連絡がきて、「ミヤケさん絵の仕事やめるんだったら、小説書きませんか?」っていうオファーをいただきました。

当時コンセプトっていうものを展示の時に出してなかったんですけど、毎回展示の度に「どうしてこれを描いたんですか。これ何の絵ですか?」って聞かれるのがすごい苦痛で。

ある時、その時の自分の気持ちを詩に書いて貼ったら、誰も何も言わなくなったんですよ。
で、「あ、これは便利だ。」と思って。それ以降コンセプトを詩にして書いて貼ってます。「言葉とは便利だな」と思いました。
日本美術は書画という素晴らしいフォーマットがあるので、それをもとにやり始めました。

それで、コンセプトとか詩を読んでくれた編集者さんがいて、「ミヤケさんは文才もあるから、一度短編小説書いてみませんか?」と言っていただきました。

実は幼稚園から絵日記をずっと私書いてきて。それがおそらく、多分私の文章と絵の源流だと思います。

一応学生時代ZIN(同人誌)とかもつくっていたし、やってみようって思って「ちょっと不安なので毎月一本ずつ短編集を送りますので、オッケーだったら出版お願いします」って言って。
毎月書いていって、それが『おやすみなさい。良い夢を。』っていう講談社さんの本になります。
この本が出版されたのが、パリにいた一番の功績です。

『おやすみなさい、良い夢を。』講談社 2011年1月20日発売 講談社「モーニング」公式サイトで、ひと月1篇掲載の連載小説。 季節ごとに12人の登場人物がつむぐ人生の一瞬。詩と小説の間を漂う、日常と幻想。 東京発、異国情緒文学。 ミヤケマイ公式サイトより

自分のキャリアより多分、自分の生活ファーストで。

野田
『おやすみなさい、良い夢を。』に書かれているのは、フランスの生活で感じたことなどなんですか。

ミヤケ
そうでもないです。短編小説なので事実と事実でないものが混ざっていて。
ただやはりその空気感の影響はもちろんあるので、箇所箇所、パリっぽい話が出てきたりとかはします。

すごく短い、ちょうど詩と短編小説の中間ぐらいのものが書きたくて。
なぜかというと、もともと本がものすごく好きで、一日二三冊とか、授業中もずっと本を読んでいました。

野田
一日に二、三冊も本読んで、なおかつ絵も一日二枚ぐらいを描いていたんですね。

ミヤケ
仕事が忙しくなってからは全然本が読めなくなっていて、でもやっぱり本が読みたいと思うけど、疲れていて読めなくて漫画読んじゃうみたいな日々で。
ちょっと寝る前にムードチェンジャーでさくっと読めるようなものが作りたいなと思ったのと、自分の詩とか短歌、自分の特性や文章の特性を活かした詩と小説の中間ぐらいのもので、掌編小説と言われるジャンルのすごく短い小説を12編書きました。
自分が忙しくて前のようにフルに小説が読めなくなっていたので、忙しい方、夜寝る前にちょこっと読めるものをつくりたいという気持ちでした。

野田
ああ、でもこの本を拝見すると、今のなんかこうミヤケさんの作品の雰囲気に似てますね。「似てる」では言葉が違うかもしれませんが、感じますね。

ミヤケ
本質的にはあんまり変わらないです。

野田
じゃあ、高校とか大学のころに描かれた絵のタッチもやわらかいものが多かったんですか。

ミヤケ
そうですね。そういう意味ではそんなに変わってないかなと、ペインターからインスタレーションになったっていうのが、大きな差かなと思うんですけど。

野田
(本を手に取りながら)かわいい。面白い。

ミヤケ
私の絵は抽象的な動物で、あんまリアルじゃないし、表情も何を考えているのかわからない感じのものが多いです。

野田
動物多いですよね。

ミヤケ
そうですね、植物、動物、建築の順に好きですかね。

野田
あ、やっぱり好きなものを書いているって感じですか。

ミヤケ
そうなのだと思います。

野田
人間がほとんどいないですよね?
人間は好きじゃない?

ミヤケ
(笑)。確かに、そんなに好きではないかも・・・。

野田
ここに書かれているのも、ある意味、タッチとかはそんなに変わってないかなっていう話だったと思うんですけど、テーマとかも変わっていないのでしょうか?

ミヤケ
自分の中にある美や、日本の美意識は、割とずっと中核にあります。

野田
もう少し言葉を足すなら「日本の美(美意識)」はどういう意味でしょうか?

ミヤケ
「日本の美」と言うと大げさですが、私が美しいと思うものは、独特の間合いや余白、シンボリズムのレイヤー、時間の経過などの様々なレイヤリングであったり、西洋の遠近法と全く違う描き方、構図などです。
あとそのシンボリズムとかもそうですね。西洋絵画もルネッサンスとかシンボリズムがありますけど、日本はずっとそういうシンボリズムとか、あと本歌取りとか過去のものをこう繰り返し補強していく感じが好きです。
 
あと前回(パート1)の資生堂の話と結びつくと思うんですけど、日本の美術ってすごい分業制なので、例えば版画にしても、版を彫る人がいるし、刷る人がいて「技師」がいて。
 凄い分業制になっていたり、その純然たるハイアートの美術館も、普通は空間がないと、箱のサイズとかを見て、これから作品作りますので、まず大工、庭師、それをお施主さんがどういう家を建てて、どんなところにするのか?町人なのか商人なのか、お武家さんなのかとかによってももうフォーマットが変わってくるので、そういう空間と周りに関わってくる人たちの色を見ながら作品を作るというのを私は自発的受注って言ってるんですけど。
「こういうの作って」って言われないのですが、こっちからその場を読み込み、この場所にふさわしいものを作っていくって言うのが、私の「現代美術のサイトスペシフィックレストレーション」なのではないかなと。
 
そういうことに私が興味があったので、作風もそうですし、後後のそういうディレクションとか、ほかの作家さんとかが入ってきたり、その作家さんを主役に、自分は脇に回るのとかも全然嫌じゃないのかと思います。
その空間が気持ちよくて自分の見たいものが見れれば別に自分が主役でなくても、縁の下の力持ちでも良いような気がします。

野田
そういったものを常にこう作家活動というか、人生を通して考えて、作品に投影してきていると。

ミヤケ
そうですね。いわゆる日本の美大教育を受けてないので、美術文脈とか作家はこうならなきゃとか、こうしないと売れないとか、そういうのが一切なくてここまで来てしまい。

もうなんか呼吸するように作品を作って、生きることイコール作品を作ることで、どういう作家になりたいかっていうより、どういう人間になりたいかどういう人生を送りたいかの方が明らかにモチベーションとして強いんです。

なのでパリに行った理由の一つも、当時、現代美術をやるならニューヨークかドイツだよって、みんなに言われて。仲間はみんなニューヨーク、ドイツにいくので、「なんでパリに行くの?」「現代美術が弱いところに行くの?」って言われたんですけど、まあフランス人に声かけていただいたというのもあるんですけど、そうじゃなくても、ご飯が美味しくて生活が楽しそうで美術が中心にある国に行きたいというのはありました。

そういうなんか。基本自分のキャリアより多分、自分の生活ファースト、そういうところがあるんだと思います。

野田
ありがとうございます。面白いです。
最後となるパート3では、京都芸術大学で関わっている基礎美術のお話を伺いたいなと思っています。


▼個展のご案内

ART PROJECT with P.G.C.D.
Respect the Artist
ミヤケマイ
「ハクチョウの唄」

期間:2023年7月1日(土)〜9月30日(土)まで
場所:JBIG meets Art gallery
〒107-0062 東京都港区南青山 7-4-2 アトリウム青山
※完全予約制・入場無料
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