Learn the spiritual beauty of Japan from the Do.
P.G.C.D. JAPANの季節ごとのお茶会を共に開催していただいている茶道裏千家茶人の土井宗満氏。
所作と道具の美しい関係について語り合った。
日本人が忘れてしまった大切なこころ
非日常を日常に戻すための修練
野田泰平(以下、野田) P.G.C.D.では、石鹸をお客様にお届けしながら、先生にもご協力いただいてお茶会を開いていただいている中で、僕は、「洗顔の行為」が「お茶を点てる行為」に似ていると思っていました。
P.G.C.D.の石鹸のサイズは125gで、実は女性の手よりも少し大きいんです。日本で売られている石鹸の平均の大きさは90〜100gの間くらいなので、少し大きいんですよね。大きいとお客様が泡を立てている時に落としそうになるので丁寧に泡立ててくださる。そうすると、お客様の泡立て方によって石鹸が手に馴染んでくる。新しい石鹸を1ヶ月後に比べると、全てバラバラの形になるんです。
僕たちが提供しているのは汚れを落とすための石鹸ではあるんですけど、僕たちがお伝えしていることは「泡を立てている時間=心を洗っている時間」。なぜなら、泡立てをしている間に何か考えているから。例えば夜の石鹸の場合、1日を振り返ったり、明日のことを考えたり。そうして石鹸を泡立てている時には心を洗って、できた泡で顔を洗って汚れを落とすことができる。流し終わった時にパッと目を開けて、鏡にうつる汚れが落ちた自分の顔と向き合って「今日も頑張ろう」「明日も頑張ろう」って、自分と会話したり心と対話したりする。その時間こそが「豊かな時間」なんだと思うんです。
そういう時間が、お茶の時間とすごく似ているなと思っているので、洗顔を楽しんでくださっているお客様たちは、お茶会をすごく喜んでくださるのではないかなと思い、開催しています。
土井宗満(以下、土井) そのような想いでお声がけいただいていたのですね。お茶というのは、日常の世界ではなく、ある意味「非日常」ですからね。洗顔のお話を聞いていると、きっと短い時間のなかで非日常があるのですよね。石鹸を泡立てているとだんだん非日常にはいっていく。そして、洗い流した時に日常に帰ってくる。その辺が面白いところですね。
野田 「ケとハレ」という言葉がありますが、「ケ」が日常で「ハレ」が非日常。気が枯れるから「気枯れる(ケガレル)」と言って、ケガレタところにハレがきて枯れた気を浄化してくれて、また日常が始まる。ハレという行為はケガレタ心をきれいにする。そう考えると、P.G.C.D.の朝晩の洗顔は、ケガレタ部分をハレに戻してくれる時間なので、まさにおっしゃる通りなんですよね。
勝手ながら僕たちは「石鹸道(せっけんどう)」「洗顔道(せんがんどう)」と自分たちで言ったりするのですが、丁寧な時間を過ごすことがお茶の道も含めて「道」に繋がるのかなと思っています。先生は「道」の部分をどのように生徒さんたちにお話しされているんですか?
土井 「まねる・まねぶ・まなぶ」と言いますが、真似をすることがまず最初です。なんでもそうだと思いますが。基本的に練習というのは技を磨いていくだけのことで、「道」とは少し違います。さらに人間的な成長が入ってこないと「道」にならない。ただスキルを上げていくだけじゃなくて、スキルを上げるとともに自分の気持ちの中の精神的なものを獲得していくということがないと。そこが「道」と「稽古と練習」の違いだと思います。そういうところに、いわゆる日本の「道」の意味があるんじゃないですかね。
野田 企業にもお茶を通して研修や教育的なお話をしてらっしゃいますよね。それは今のお話のどこに通ずることなのでしょうか?
土井 仕事ってどうしてもルーティーンになってしまうんですよね。ベテランになればなるほどルーティーンになってしまう。お茶というのは一つ一つの動作に気を入れていかないと必ず間違えるんです。だから、結局お茶の稽古というのはルーティーンをまず習うわけですけれど、そのルーティーンは何のためにやっているかというと、日常のことではなく非日常のことが起こったときに素早く対応できるためのものなんですよ。稽古っていうのはそういうものなんです。
例えば、お茶をやっていて、どんなにベテランでもちょっと茶杓を落とすことがあります。そしたら、すぐ半東が出てきて茶杓を替えるという連携プレーは、心構えがないとすぐ動けないんですよね。柄杓を落とすことは間々あることですが、仕方がないことなので、その時にどうするのか、誰が対応するのか。そういう訓練をするということです。
まだお茶の場合は途中で点前を少し止めておいて、次に何とかしようということができるんですけど、僕がやっている能の場合は全く止められないんです。例えば、能には後見という後ろに座っている人がいます。ただ座っているのではなくて、舞っている方が舞台で倒れた時、後見が続きから舞います。そういうことは日常的に起こったことがあるわけですが、絶対に止めてはいけない、最後までやらなければいけない。だから、そういう非日常に対してどういう風に動けるかということが、日本の「道」に繋がってくるのではないかと思います。そのための修練だと思いますよ。
野田 なぜそれが今企業として必要とされているんでしょうか?
土井 どこかに忘れ物をしているんじゃないですか、精神的なものを。
野田 なるほど。例えばどんな話があるのでしょうか。
土井 例えば、人に挨拶をする時でもきちんとした挨拶の仕方があります。でも、親しくなると違ってきますよね。フォーマルな時にもそれをやってしまうと困るわけです。フォーマルな時にはフォーマルな時の挨拶の仕方、カジュアルな時にはカジュアルな時の挨拶の仕方があるわけで、そういうメリハリをつけるということが大事。それから仕事に対する姿勢というのも、どこかお茶の姿勢と響くものがあるのかもしれませんね。やはりどこかに忘れ物してるんじゃないかなって思うんですよね。
茶道は日本の文化ってよく言われますけど、割と安直なんですよ。政府が言うような「日本の文化を紹介する」と言うのは、表面的なものしかやらない。それでわかったつもりになっているのは、少し違うんじゃないかなという気がします。もう少し深く伝えていかないと、こちら側の心が伝わらないんです。スキルだけだと、どうしても相手に伝わる気持ちの部分がなくなってしまう。その辺が単なる礼儀作法ではなく、お茶に求められるところなんだと思います。
日本の「道」がつくる「美しさ」
茶道はまさしく日本的合理性
野田 会社の中で「日本的合理性と西洋的合理性」の話をすることがあります。西洋的合理性は手間ひまをなくすことが便利、日本の合理性は手間ひまをかけることが便利であったり正常であったり、上手くなるということ。まさに軽いことではなくて、身につくようなことになる。合理性を省いてしまうと身につかない。日本の合理性は手間ひまこそが合理的で、上達することも含めたものだと思っています。
また今回、先生と道具の話をしたくて茶碗を持ってきました。P.G.C.D.の商品には石鹸と一緒にエクラというローションがあります。エクラはガラス瓶でできています。化粧品のプロダクトでガラス瓶を使うことは、結構ネガティブな人たちが多いです。お客様たちは、「持った瞬間にガラスってわかったからそっと置いちゃったじゃない」っておっしゃられたんです。そこが目的なんです。プラスチックの場合、落ちたら拾えばいい。でもガラスの場合、落ちたら割れますよね。割れた時、実は初めて人はものを大切にしなかったことを後悔する。ものを大切にする心って、壊れないと生まれないんです。自分の肌を大切にして欲しいなと思った時に、道具を大切にしてくれない限り、肌を大事にしてもらえないんじゃないかなと思ったんです。だから、ガラス瓶を使っています。しかし、やはり水回りにガラスなんて危ないとか、子どもがいるからプラスチックがいいというご意見もいただきます。
でも、茶道だとプラスチックの器で飲むなんてありえないじゃないですか。やはり心を整えて、心を鍛えたり心に対して成長したりする時に、道具ってすごく大事だと思っていて。そういうのを先生はどのように教えられるんですか?
土井 まず、最初に指導されるのは「茶碗を手渡しするな」「必ず畳の上に置け」。よそ見をしていると必ず落とします。だから、必ず畳の上に置きなさいと。あと、「釜を持っていく時は必ず声をかけなさい」。突然来られたらびっくりするから「釜が通ります。釜が通ります。」って。そして、「炭を扱う時は必ず畳が焦げないようにタオルを敷きなさい」。いろんなことを言われますよ。
だから、お茶はどうしても道具が必要なので、道具をどう扱えるようになるかというのも、お茶の上達の一つですね。
合理性で言えば、お茶はすごく合理的にできています。例えば、点前席に座るとこちらの茶室では内隅を狙って座りますが、私の別の茶室では外隅を狙って座ります。それは部屋の大きさによって違う。それから、必ず十六目あける。畳の縁から十六目あけるのは、茶碗と棗を置くと、必ずその間隔が必要になる。そして水指の置く位置など全部決まっているんですよ。その通りできるようになると、点前が綺麗になります。それが日本の合理性なんですよね。野田さんが手間ひまをかけるという話をされた通り、きちんとした道具の置き場を学んでおかないと、点前が複雑になればなるほど基本に帰れずどんどんめちゃくちゃになってしまいます。
野田 ものを大切にする心ってすごく大事だなって思っています。お茶をされている方たちは、みなさん茶器を含めてものを丁寧に扱われますよね。拭き方にもお作法があるように、ものの置き方の向きにも決まりがありますよね。やっぱり所作事も含めて丁寧にされているし、それが大事だと思っていて。プラスチックとかになってしまうと、そういう心が芽生えないのではないかと思うんです。
土井 茶碗にしても、ふっと気を抜く時はあるんですよね。別の場所を向いていて、片手で持つと必ず粗相をする。だから、道具を扱う時は必ず自分の手元を見て、相手の手元を見てきちんとやらないといけない。そういう風に一番最初に教わります。それと、どうしてもお茶碗を手渡ししたくなりますが、必ずものの上に置く。そうすれば絶対間違いない。それが一番の基本ですね。
野田 茶道において道具というのは、どういう位置付けなんですか?
土井 道具はやはりお茶にとって、一番大事なもの。道具がないとお茶はできませんから。
昔の歴史を語ると、最初は広間の茶で、台子と唐物を置いて、三幅対をかけてやっていたんです。基本的に道具は物凄く高い。だから、それを扱うのもベテランの人、しょっちゅう扱っている人じゃないと扱えなかった。その頃は普通の人は触れなかったんですよ。
野田 元々高価だったってことですよね。
土井 元々高価です。千利休だって買えなかったわけですから。彼は食糧の商人ですから、他の武器商人のようにはお金がなかった。そうすると自由には唐物を買えないので、別の価値としての国焼をつくっていくわけです。つまり、そこから自分のセンスと美意識だけで生きていくわけですよね。だから、茶碗を扱うにしても、その人の美意識があると思うんです。扱い方にも美意識が出る。その人の人柄が出るわけです。点前にも人柄が出るんですよ。
「陰」があるところにこそ美しさがある
野田 P.G.C.D.の石鹸もエクラも、肌を綺麗にするという行為では道具なんですよ。ただ、決して安いものではない。お客様に「侘寂」の話をさせていただく時に、もちろん「侘」の華やかな美も大事だけど、特に「寂の美」の朽ちていける美を重点に伝えています。
例えば、化粧。「化けて粧う」って書くじゃないですか。化けていたら朽ちることができない。やっぱり日本の朽ちていけるということはとても大切で、以前先生もおっしゃった「道具は使わなきゃダメだよ」という言葉のように、使っていくたびにどんどん変わっていく。そういう「朽ちていく美」が、日本の1000年以上続いている価値観だと思っています。しかし、現代の美しさは、「今」「すぐ」というものにどんどん変わってきていて、待てなくなってきている。美味しいものもすぐレンジで温めればいいみたいな。でも、僕たちはお客様に対して、化粧をすることばかりに時間やお金をかけるけど、本当の意味で「自分がちゃんと朽ちていける美というものに対して、大切なことを忘れていませんか?」ということを伝えるために、道具として石鹸やガラス瓶のローションを大切にしていただきたいとお伝えしています。でも、なかなか上手く伝えられていないところがあります。
土井 なるほど。お茶でも、昔は新しい茶葉が採れた時に茶壺に入れてとっておくんです。そして、茶道の正月の11月になって、口切と言って茶壺を開けて中の薄葉を挽いて飲むお茶が一番良いものとされていた。でも、商人の宣伝もあり、どんどん新茶が良い。熟成したものではなく、新しいもの、若いものが良いってなってくるんです。でも、実際に新茶を飲んでみると、確かに香りはいいけど、味がない。深みがないんです。だから、新しいもの、新鮮なもの、若いものが良いという世の中に対して、そこは少し違うんじゃないかなと思うんですよね。
野田 化粧の場合、若見えや七難隠すということがあります。今、日本でも世界でも広告費をいちばん使っているのは化粧品会社なんです。僕たちが「ファンデーションとか化粧(ばけしょう)をやめましょう」とお客様になる前の方たちにお伝えした時に、一定のお客様は「あなたが私の美しさについて勝手なことを言わないで」「私の美しさは私が決めるの」とおっしゃられる方が多いんです。でも、その美しさは本当にお客様が考えた美しさなんだろうか、と僕たちは思うわけですよね。その美しさは、この60年程で化粧品会社がお客様に植え込んだ美しさじゃないだろうかと。メイクして、隠して、施術していろんなことをやりますが、それは本当に自分が持つ美意識ですか?と問いたいんです。
僕は、学生時代に建築を学んでいたのですが、50年以上経っているコンクリート建築ってまだ存在しないんです。でも、日本の木造建築は1000年以上経っている。借景も含めた上で、朽ちていく美も含めた上で、季節の変化も含めた上で、いろんな美しさを持っているのに。今の人たちは、他人と相対的に比較をする美しさしか美と言わない。
そういうところで、お茶の道の中で比較や対比ではなく、自分のものとして美しさをつくるようなことは教えにあるんですか?
土井 お茶というのは割と暗いところで行うんですよね。明るいところであまりやらずに、自然光がずっと動いていくようなところで行うんです。そうすると必ずものを置いた時に陰ができる。その陰が移っていくところがお茶の移ろいであって、茶事の移ろい。その陰があるところに美しさがあるわけです。だから、陰もない全てを照らしているようなところでは、全く美しくもなんともないわけですよ。陰があるところに美しさがあるわけです。
だけど、今はどうですかね。都市開発なんかでも陰の部分を全部明るくしちゃいますよね。やはり暗い部分と明るい部分、対比の部分がないとものというのは美しくならない。
野田 そういう意味では、自分の中の対比が必要ということなんですね。現代社会では、他人との比較ばかりで、あの人の方がものを持っているとか綺麗とか、そういうことばかりになっている。自分の中に陰と陽を持つような、美しさの中でできる陰の部分をもっと持つべきなのに。
土井 そこを学ぶのが、日本の「道」なんじゃないですかね。そこが精神的なものだと思うんです。
昨年映画で、樹木希林と黒木華の『日日是好日』が放映されましたよね。静かな映画ですが、最初は嫌だった気持ちが、先生のお点前や季節の移ろいの中で、道具を変えながらものを楽しむということを知る。そのものを、その場を楽しんでいくというのかな。それがわかってくると、自分の気持ちの中に変化が出て、自然の移ろいや自分の気持ちの揺らぎ、自分と相手との距離などがだんだんわかってくるという映画。そのようなところが、お茶から一番学ぶところなのでしょう。自分の精神的なものを引き出して、自分で見ることを覚えるようになれると、お茶も良くなるのではないでしょうか。そのための修行だと思うんです。
野田 尚且つ、その人が美しく見えますよね。
土井 そうなんですよ。だから、本来の自分が出てくる。
野田 日本人の「美しい」という言葉の背景には、英語のBeautifulみたいな言葉ではなく、努力や習慣、ストイックにやり切る部分や、始まりと終わりを大切にする、時間に対して丁寧である、人を裏切らないということが込められている。生き方が全て込められて「美しい」という単語になっているような気がして。先生がお話しされたように、お点前に向き合って繰り返し行う日々が結果的にその人を美しくしていると思うんです。
土井 綺麗とは違うんですよね。同じ「美」というものでも、「綺麗」と「美しい」は違いますから。
野田 P.G.C.D.だと石鹸、茶事だと茶器や茶道具と向き合い、毎日同じことの繰り返しの中で、少しずつ工夫をしながら上手になることが「美しい」をつくっていくのでしょうね。
土井 そうすると道具の持ち方も変わってくると思います。持ち方が変わると見方も変わってくる。自分の中に馴染む、そういう道具を自分で見つけられるようになると、また一歩先へ進めるようになりますよね。
野田 本当にP.G.C.D.の石鹸は自分の手に馴染んでいくんです。さらに石鹸は、パッケージがないから最終的にゼロになるんですよ。ゼロになれるけど、P.G.C.D.の石鹸は小さくなると大きな石鹸とくっつけることもできるんです。道具としては生まれて無くなるを繰り返していますが、肌も同じように泡で洗うと表面の肌が剥がれて新しい肌が生まれるを繰り返している。だからこそ、洗顔に対してもっと上手に工夫をしてという行動の繰り返しが、P.G.C.D.でいう「美しさ」だということを伝えたい。世の中では、飲んだら痩せる、塗ると一発でシミがなくなるというのが多いですが、人間が持っている本当の美しさというのは、そういうことではないと思います。そういうことを伝えたいのですが難しいので、お客様と一緒にお茶事をやらせていただいたり、石鹸道や洗顔道という言葉を使ったりして、お客様にお伝えしている。その繰り返しです。
土井 人間は人から色んなことを言われたとき、元々自分の持っている型にはめたくなります。そして「やっぱりそうだったんだ」と言いたいんです。でも、それぞれの人の中にあるその型を1回壊さないと新しいものにはいけないんです。お茶の修行でもその型を1回壊さないとダメ。だから、最初はすごくうるさく言われます。
野田 先生のご記憶にある型を壊した話はどのようなものがありますか?
土井 例えば、僕がお茶を始めたきっかけの話です。学生の時は実家を継ぐ予定はなかったのですが、祖母と母にどうしてもと言われて23歳くらいの時に丁稚小僧に行きました。静岡に2年くらい、それから宇治へ。でも、実につまらないんですよね。今までやってきたこととあまりにも乖離があって、ホウキしか持たせてくれなくて、お茶なんか触らせてくれない。半年くらい掃き掃除ばかりで、「なんで俺はこんなことをやっているんだ」とずっと思っていました。その後、宇治へ行った時には、ずいぶんと突っ張っていました。その家で「先生が来るから土井さんもちょっとお茶をやってみたら?」と言われたのですが、「茶なんて…」と思っていたわけです(笑)ピンクのワイシャツにラッパのジーパンを履いて、胡座をかいて待っていましたが、先生は全く怒らずに丁寧に教えてくれるんです。また、「いちいち茶碗を回さないといけないのか」、「茶杓を拭かないといけないのか」という理屈っぽい質問にも全部答えてくれて。「これは何か得るものがあるかもしれない」と思い、東京に帰り妹が通っていた先生のところへ行ったんです。そしたら、たまたまその先生もおおらかな方で、約9人の男ばかりのクラスだったんですけど、面白くて。先生もお酒が好きな方だったので、稽古の後には必ずお酒を出してくれて、茶の話だけでなく、いろんな話を教えてくれて、そのうちにお茶が面白くなってくるんですよね。自分が突っ張って、世の中に対して色々と反抗していたけど、目を覚まさせてくれた。そういう意味では、お茶と出会えて本当にありがたいなと思っています。
野田 P.G.C.D.のお客様も40歳、50歳、もっと上のお客様が多くいらっしゃいます。昔は化粧品も経験もいろんなことをされたけど、結局はシンプルで丁寧に自分に向き合うP.G.C.D.の石鹸とローションが私をつくっていると言ってくださる。なんとも言えない笑顔で石鹸を持ちながら、「これは私の体の、人生の一部なんです」と言ってくださるんです。コンビニで100円で石鹸は買えるけど、P.G.C.D.の石鹸じゃないといけないのは、丁寧に泡立てや洗顔をしながら、変わっていく自分を毎日繰り返していくから、何か他とは違うものを感じてくださっているのかなと思います。
土井 やはり時間がかかることなんですよね。時間がかかるということが面倒臭い人がたくさんいるんでしょうけど。ただ時間をかけることで、自分はもっと美しくなるんだということをなかなかわかってくれないんですよね。世の中、いろんなことが短くなってきていますから。本当は自分と向き合える時間がすごく重要なんです。
毎日の繰り返しと遊びの中から見える真の自分
野田 最後に、先生の中で「美しい」とはどういうものと考えられていますか?
土井 それはやはり内面でしょうね。自分の内面が良くならないと、美しいものが出てこない。
野田 どうやって育てていくものなんですか?
土井 まず、基本的な「教養」だと思います。それをずっと積み重ねていくことで、ものが考えられるようになる。ものを考えることって、なかなかできないことだと思うんです。ある程度の基礎の部分がないと次へ行けない。だから、ものを考えるためには、ある程度の教養がないとダメなんじゃないかと僕は思うんです。
野田 その上に自分の思う美しさや糧みたいなものを積み上げていくということなんですかね。
土井 だから、一生積み上げていかないと。学んだものはすぐ忘れてしまいますから。それを何回も繰り返していかないといけません。考えなくても動く、考えなくてもお茶を点てられるということ。日本の芸能はそういうことが多いです。考えなくても体に染み込ませるっていう。そのためには、やはりある程度基礎がないと。
野田 基礎があっての積み重ねですね。
土井 それと遊ばないとダメですよね。遊ばないと、人の真の姿が見えてこないと思います。遊びは余裕を持つことですから。余裕の中で相手を見ることと、仕事の中で見ることは違います。だから、一度自分を崩してみることをある時期にやらないと、と思うんです。
野田 僕は、美しさの「軸がある人とない人」という話を社内でよくします。ぶれることは悪いことじゃないんだ、と。なぜなら軸があるからぶれていることがわかる。もっと言うと、軸を持っているならぶれてみたらいい。右にぶれて行きすぎたなら、次は左にぶれてみる。軸が細いと、先生がおっしゃったように、その人らしさが見えてこないかもしれない。どんどん少しずつ振れることによって軸が太くなっていく。そうすると自分らしさが見えてくる。軸がない人は、そもそも軸がないのでどこがセンターかわからない。先生のおっしゃる遊びというのがすごくわかります。僕で言う軸を持ちながら遊んでみる、ぶれてみるということなのかなと思いました。
土井 亡くなられた中村勘三郎氏がよくおっしゃられていました。「型がある」から「型破り」になる、「型がない」やつは「型なし」なんだ、と。そういうことだと思うんです。決められた型の中で自分がどう自由に生きられるかということを考えていかないと。短歌や俳句のように、型があって、型の中の制約の中でどうやって自分を出していくかということが面白いんじゃないですかね。そこが日本の芸能、物事の面白いところだと思うんですよね。
野田 そうですね。P.G.C.D.のお客様たちに対して、またぜひお茶会を開いていただければと思います。今後も引き続きどうぞよろしくお願いいたします。本日はありがとうございました。
土井 こちらこそ今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
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